音と光に気散じる日々の漫録

脳脊髄液減少症の淡々とした日常。徒に音爆制作や写真撮影でワールドワイドに生存報告。  年中無休で体調不良のため、常に期待を裏切りますので、気にしつつ気にしないでくださいませ

「わざとじゃないからいいじゃないか?」という表現が嫌いだ

「わざとじゃないからいいじゃないか?」という表現が嫌いだ。
悪意なきものに寛大なのは日本人に特有なメンタリティーなのかもしれないが、良いわけないだろ!と思う。たまたま、つい最近身近な人から直接言われて、もの凄く違和感を感じた言葉の言い回しだ。あー、べつに怒ってないですよ。ビックリしただけだから。そもそも怒るようなもんでもないし、だた危険を感じたから強く言っただけで。ただし、その後のこちらからは要求すらしていない弁明を勝手にはじめて「わざとじゃないからいいじゃないか?」と発したことには、ムカっときましたね。


わざと殺されたひとも、間違いや失敗など「殺すつもりはなかった」という後付けの弁解で殺された人も、殺されるころには変わりない。
死には至らなかったとしても、過失傷害の被害者として、ほんとに許せない。人生を潰されたのであれば、殺されに等しいじゃないか。長期に渡って痛めつけ死に至らしめるのだから、もっとも残酷な殺し方をされているとも言えるんだ。
そんな忌むべき言葉が身近な人間の口から軽々と呼吸をするかのような自然さを持って吐き出されると
空恐ろしい。気持ち悪い。胃がキリキリと痛くなる。
わざとじゃなくても、痛いものは痛いし、苦痛の肩代わりはできないだろ。
自分でも余裕ないなぁと思うが、これは実感を持って譲れないところですね。

嫌になるほど調子が悪い。たしかに、リリカカプセルの効き目で鎮痛効果は頸部・肩にはあるのだけど、痛いだけじゃないからねえ。
吐き気もするし、怠いし、ほんともの凄く怠くて、数メートル先にも移動するのが怠い。寝ているだけでももうなんか生きる気力が萎えてくる。行き場の無い負の感情が内臓から神経から身体中にあるような感覚だけど、これのことをストレスと呼ぶのでしょうかね?なんでこんなことに…。

それは、わざとではないが居眠り運転の犯罪者においきり追突事故を起こされて、脳脊髄液減少症を発症したからです。いまも苦しいです。加害者は何も責任を負ってくれません。10年以上もの歳月が経過して、日々痛みや怠さにつつき回されて、生きる気力が削がれます。そりゃ誰だって、人並みのしあわせは欲しいだろうし、笑って過ごしたほうが心地よいのだろうが、それを望むことが逆に絶望へと何度も変わって、疲れてすり減ってしまう。期待されるのが心的負担が大きい。期待に答える自信が全くないので。


で、

わざとじゃないからといって許せますか?そんなのは関係なくて、許すとかじゃない道理として納得できるかどうか。むしろ、わざと、故意に、のほうが納得できる。ムカツク奴を殴ったのほうが図式は明快だ。悪意がないならば問題無いという思考そのものが最悪である。この部分に狡賢い奴らは食いついて、貪り殺してきたんだ。歴史の教科書を見ればそう書いてあるだろ。悪や罪の基準なんて変動するものなんですよ。しかし、原因と結果は変動しない。だから利用される。気がついたら殺す側や、殺される側に一瞬で立たされるのですよ。
だからわたしは「わざとじゃないからいいじゃないか?」という表現が大嫌いだ。

例示するまでも無く、東京電力による核テロ事件だってわざと事故を起こした訳ではないだろう。
しかし、1団体が起こした被害は、もはや戦争に匹敵するぐらい最悪なものである。一つの県半分、あるいはもっと広範囲が完全に破壊されたのですよ。わざとじゃないけど。
なんで現状までの対応って、こんなにも甘いんですかね。わざと無いからですか?
数百年後の日本人にも通用する普遍性のある対応をして欲しい。
とりあえず、東電のような危険な団体は、安全が確認できるまで国家で管理するしかないと考えるのが普通じゃないのですか?
なにをのらりくらりやってるのでしょねえ。このままでは、責任を負うべき甘い汁を吸ってきたクズたちの世代が逃げ切ってエンドですよ。

って、なんの話かわからなくなりました。通称ストレスみたいな、なんかモヤモヤと呵む感情を吐き出してしまいたいのに、なんかまだまだまだまだ全く足りないんです。頭もボーっとするし、もうなんだかわからんですね。こんな体調になって、ある意味では弱者となって、逆に見えてきたものもあるっぽいですけどねー。だからなんだっていうんでしょうねえ。自分ひとりで生活できるパワーがあれば、こんな卑屈にならんですむのだろうけど、いまは無理っぽいですし。もう、いろいろとあきらめてゆくしかないのかなぁ。